憧れから現実へ—医師を目指した理由と努力

小学校の3~4年生の頃、病弱だった母が「お腹が痛い」とか「息が苦しい」と訴えることがありました。
そんなとき、近所の先生が往診に来てくださり、注射を一本打つと母はすーっと元気になるのです。その姿を見て、医師という存在の偉大さに心を動かされました。
「自分もこういうふうに人を助けたい、医師になりたい」と強く思った瞬間でした。病気の母を支え、希望を与えてくれる医師は私にとって憧れの象徴となりました。
私は医師になる夢を追いかけるため、中学は教育大学附属駒場中学(現 筑波大学附属駒場中学)を受験しましたが失敗し、結局、区立中学校に進むことになりました。高校は小山台高校に進学することになりました。
この高校は進学校で、当時は毎年、東大や東京工業大学におのおの40~50名の学生を送り出していました。
高校1年生の頃は勉強を怠り、成績が大きく落ちてしまいました。結果として一番成績の低いクラスに入り、女子ばかりの環境になりました。このことがきっかけで小学校の同級生だった女の子から「住吉君はこのクラスにいてはダメ!」と言われ、その言葉が心を入れ替えるきっかけとなりました。
夏休みの一か月間必死に勉強した結果、成績は上がり、上位100人ほどにまで戻ることができました。現役では、千葉大学や慈恵医科大学を受験しましたが、いずれも失敗に終わりました。その後、浪人生活を送ることになりましたが、予備校に行くのではなく、高校に併設された浪人専用の補修科に通いました。その環境では、もちろん学業に専念することが求められ、仲間同士が互いに切磋琢磨する日々を送りました。
一浪で千葉大学と慶応大学の両方に合格しました。父の知り合いの医学部教授から「千葉大の方がのんびりしていて、環境が良いですよ」と勧められ千葉大学に進学することにしました。
ちなみに黒田先生は私と同じ2つの大学に現役で合格していました。(笑)
大学生活と大きな転機―友人との絆が私に教えてくれたこと

大学の最初の2年間は教養課程の授業が中心でした。
そのため、東京の実家から総武線で通学していました。しかし、3年生に進級し、本格的な実習が始まるので、大学の近くで下宿を始めることにしました。医学部の卓球部に数人の仲間と入部しました。正直なところ、部活動への参加はあまり熱心ではありませんでしたが、辞めることもできず、しぶしぶ続けていました。
その中に卓球の実力がずば抜けた友人がいました。その友人との思い出には、悲しい出来事があります。
卓球部の合宿で勝山に行ったとき、彼が海に飛び込み、頚髄損傷を負って四肢麻痺になってしまいました。その衝撃的な事故により、彼の人生は大きく変わりました。
当時の卓球部のキャプテンだった藤塚先生は、その後ずっと彼の面倒を見ていました。その献身的なサポートに、私も深く感銘を受けました。それから年月が流れ、黒田先生とともに病院を開業した後、私たちは彼を自分の病院に呼び寄せました。そして彼が70歳になるまで、私たちの病院で過ごしてもらい、彼の人生の最期を見届けることができました。
この経験を通じて、医療とは単に治療を施すことだけではなく、人々の人生に深く寄り添うものなのだと強く感じました。彼との友情は、私にとって生涯忘れることのできないものです。