二人の出会いと病院創立のきっかけ

私が住吉先生と出会ったのは大学1年生のときで、そこから61年来の親友です。
学生時代には住吉先生のお宅にお邪魔し、お母さまに食事をごちそうになることもありました。その頃から将来、「一緒に病院をやれるといいね。」と話していました。約43年前、住吉先生は市立病院で勤務しており、私は鹿島労災病院に単身赴任していました。その頃、住吉先生のお母さまが松戸市立病院(現在の松戸市立総合医療センター)に入院されたという知らせを受け、私はすぐにお見舞いに伺いました。
久しぶりに再会した私たちは、自然と学生時代から話していた夢の話題へと移り、語り合いました。そして3年後の春、私たちはついに病院を開業するという夢を実現することになったのです。それは私が40歳の時でした。
創立時の苦労

経営に関しての勉強はしませんでした。もちろん苦労は沢山ありました。
中でも一番大変だったのが、資金集めでした。私も住吉先生も一文無しみたいなもんだったから、病院を建てようとすると全て借金でまかなう必要がありました。何度も銀行に融資をお願いしましたが、資金力がない私たちが経営を続けられるか不安視され、どこも応じてくれませんでした。さらに交渉を後押ししてくれる後ろ盾があったにも関わらず、大手銀行からは全て断られてしまいました。
しかし、最後に茨城の地方銀行である常陽銀行に相談したところ、奇跡的に融資を受けられることになりました。この時の喜びは言葉に表せないほど大きなものでした。
その後、病院の経営が順調に進むと、かつて融資を断った銀行が取引を持ちかけてきました。しかし、私たちは常陽銀行に深く感謝しており、それ以外の銀行との取引はお断りしました。
開院以来、常陽銀行とは長年にわたりお付き合いすることとなりました。開院時、広告やチラシを使った宣伝は行わず、「質の高い医療を提供していれば自然と患者さんが来るはず」という信念のもと、医療に専念しました。開院初日の外来患者さんはわずか4人でしたが、1年も経たないうちに口コミで評判が広がり、患者さんが増えていきました。経済的な利益よりも患者さんに最高の医療を提供することを優先し、外来や手術を行いました。
台湾から日本に来た斉井先生を含む3人で協力しながら運営を進め、病院の規模も数年のうちに拡大しました。最初は1棟のみの建物でしたが、徐々にL字型に広がり、さらに増築を重ねていきました。
